連載「東京における日米アンポを斬る」(2010年3月号~2011年5月号)に続いて、「構造改革」路線が招いた「貧困と格差」問題をテーマに取り上げます。多角的な視点から、「貧困と格差」の実態に迫り、「国民が主人公」の社会をめざします。
人生エンディングにおける格差 東京宗教者平和の会 事務局次長 森 修覚(僧侶)
変化する死生観
葬儀は必要か
人間は「死んだ」という認識ができるのです。これは動物にはない認識だと思います。そこから埋葬が生まれてきたのではないかと考えます。家族が寄り添って死を迎えることは少なく、病院ほとんどだと思います。(突然の死は別として)現代の死生観の変化を感じます。
葬儀は人の死にどのように向き合うのかが問われます。葬儀が必要か、不要かという問題が最近では、『葬式は要らない』(島田裕巳著)『葬式にお坊さんは要らない』(田代尚嗣著)や『現代葬儀考』『宗教のないお葬式』(柿田睦夫著)や「お葬式学習会」「葬儀は自分らしく」などの学習会など葬儀に関する話題は「格差」なく関心がもたれています。
「直葬儀」が3割にも その中でも関心は葬儀費用です。全日本葬祭業協同組合連合会の資料によれば「葬祭費用総額の平均」は237万円(03年)。しかし、最近は簡素化志向が増えています。その特徴が「直葬」(じきそう又はちょくそう)が増えていることです。葬儀は無しで直接火葬炉にお棺を持っていくこと、つまり荼毘にすることです。都会では3割だといわれています。また、家族だけで行う「家族葬」とも称しています。以前までは「密葬」という名前でした。
このような傾向は小泉「構造改革」以来続きます。格差の現状は人間の死をめぐっても厳しいものがあります。葬儀産業も盛んで大手イオンの参入で話題になりました。町の葬儀社には相談が少なく、チェーン店の葬儀社に相談が多く寄せられているのが現状です。
増えている「釜前葬儀」 直葬でも仏教で葬送したいということで、僧侶が読経することが多くなりました。これを「釜前葬儀」と私が称しています。葬儀無しでの不安がここに表れているのではないかと思います。しかし、そこでも「法名、戒名」が問題になり、俗名が半分ぐらいです。これも葬儀への迷い、不信の現われかと思います。
昨年ご主人をなくした奥さんから自分は無宗教だから主人の葬儀は行わなかった。しかし、その後、自分が交通事故にあった。きちんと葬儀しなかったと思い、僧侶の読経をお願いしたいとの話もありました。ここにも迷いがあります。
大切な別れの時間 人の死とどのように向き合うのかいま問われています。「自分らしい葬儀」「お金のかからない葬儀」などの学習や相談が関心を寄せています。葬儀の仕組みや法律など知ることも必要ではないでしょうか。
格差が人の死をめぐって表れていることは残念です。個々のケースの違いはあります。しかし、葬儀は別れ。悲しみを乗りこえるためにも別れの時間を持ってほしいものです。それが葬送の行為だと思います。
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