2011年1月2日日曜日

安保を遠ざけるマスコミの現況 ~メディアと安保~

東京における日米アンポを斬る⑨
仲築間 卓蔵(元日テレプロデューサー)
1960年の5月から6月にかけての新安保条約反対闘争。日本テレビで働いていた私は、(安保については)単なる野次馬の一人でしかなかった。6月15日、ラジオを聴いていて国会周辺の騒ぎを知る。

当時は、ラジオが主流
当時の放送メディアの主流はラジオだった。テレビは、ラジオのように生中継もできなかった。取材は、100フィートしか入らない「フィルモ」というカメラでの撮影である。5月18日の深夜、警官隊500名に守られての衆院本会議強行採決や国会周辺の状況は取材されているが、放送はニュースの枠だけだった。

国会周辺は、連日、デモ隊に包囲されていた。民放労連の機関紙をめくってみると、私の知らなかった事実が日誌風につづられている。赤坂・山王神社の祭りで、子どもたちのかついだ神輿が「ワッショイ、ワッショイ」ではなく、「アンポ、ハンタイ」に変わって大人たちを慌てさせたというエピソードも記されていた。KRテレビ(現東京放送)の職場では、(米大統領の訪日に関して)「国賓は礼儀をもって迎えましょう」というスポット放送をめぐって紛糾していた。

ラジオ関東(現ラジオ日本)のスタッフはプロ野球中継を終えてFMカ―で帰社の途中、国会包囲行動に遭遇して生中継することになる。ここに録音の一部がある。

「・・・警官隊が激しく暴力をふるっております。(バカヤロー、ナニスンダなどの声)マイクロホンも警官隊によって引きずり回されております。(サイレンの音)警官隊によって今・・・首を掴まれております。今、実況放送中でありますが、警官隊が私の顔を殴りました。そして首っ玉をひっつかまえてお前なにしているんだというふうに言っております。これが現状であります。」(島アナウンサー)。

生中継は、夜10時から深夜の2時30分まで延々と続いている。

私も、タクシーを拾って国会にかけつけた。そんな人がたくさんいたはずである。生中継の影響は大きい。警官隊は野次馬にも容赦はなかった。この日、東大生の樺美智子さんが殴殺されるという事件が起きる。岸内閣はアイク訪日の延期をアメリカに要請した。アイク訪日は中止になった。

マスコミは、権力に屈伏
新聞はどうだったか。6月16日、在京7社(朝日、毎日、読売、産経、日経、東京、東タイ)は朝刊で「暴力を排し、議会主義を守れ」と題した「七社共同宣言」を発表。全国の41紙も右へならえし、民放連も「報道の公正を期す。暴力を否定し、議会主義を守る」と申し合わせた。

これらのマスコミの動向は、国民大衆も、政府自民党も権力への屈服と受けとめた。学者グループは、「言論機関は本来の使命に立ち戻れ」と各新聞社に申し入れた。新聞労連、民放労連、日放労のマスコミ三単産も「新聞、放送は事態の本質をつけ」と共同声明を発表した。

メディアが無視できない「運動の構築」を
日本テレビに労働組合が結成されたのは、翌61年である。テレビ局に次々に労働組合がつくられていく。60年代は労働組合の高揚期であった。私が曲がりなりにも活動できているのは「安保闘争」のおかげだといっていい。

いま、メディアはどうか。あの頃の元気は、ない。60年安保以降、「あのような騒ぎは起こさせない」とする「圧力」に呑み込まれているのではなかろうか。結果は、意識的に「安保」を遠ざけることになる。「憲法」の上に「安保」があるような現実すら見ようとしていないのではないか。メディアに、「安保」を直視してもらうのは「百年河清を待つ」に等しいのだろうか。だが、「直視してほしい」と言い続けなければなるまい。そのためにも、普天間問題をはじめとする、「切実な要求」からスタートする「運動の(あらたな)構築」が望まれる。その「運動」の後を、大手メディアが慌てて追いかけてくるという時期かもしれない。