2019年5月2日木曜日

「希望の政治」をめざし参院選に向けて「本気の共闘」を
 東京革新懇代表世話人・法大学名誉教授 五十嵐 仁

 統一地方選挙と衆院補選の結果が明らかになりました。天皇の代替わりを控えた新元号「令和」の発表と、それに伴う「改元フィーバー」という一種の「お祭り騒ぎ」によって天皇制イデオロギーの浸透と定着が図られるなかでの選挙でした。
 このような社会的雰囲気は安倍首相にとって有利に働き、内閣支持率が高まる下での厳しい選挙になりました。また、定数削減や立候補者の減少による当選ラインの上昇など条件の変化もありました。
このような状況のもとで、日本共産党は地方議員の議席を後退させたものの、2017年総選挙の比例得票率より前進し、反転への足がかかりを築いたと言えます。

衆院補選で自民党2連敗

夏の参院選の前哨戦として注目されたのが衆院沖縄3区と大阪12区の補欠選挙でした。辺野古新基地建設の是非を争点とした沖縄3区では野党が支援する屋良朝博候補が圧勝、大阪12区では日本維新の会の新人候補が当選し、自民党は2連敗しました。第2次安倍政権発足以降、自民党が衆参の補選で敗北したのは初めてです。
 この背景には、長期政権の驕り、塚田一郎副国交相の「忖度発言」や桜田義孝五輪担当相による復興軽視の暴言などへの批判がありました。「安倍一強」体制の綻びが生じたということでしょうか。
 自民党候補が正面から辺野古容認を掲げて敗れた沖縄3区補選の結果は、「基地建設ノー」の最終的な審判になりました。選挙態勢として「オール沖縄」が果たした役割も大きなものでした。市民と野党との共闘の源流である沖縄で、その効果と真価が発揮されたということができます。
 他方で、大阪では残念な結果に終わりました。しかし、議員生命を投げ打って安倍政権に対抗する選択肢をつくり出した宮本たけし候補の決断と勇気は高く評価されます。
自由・社民・立憲・国民の党首をはじめ6野党・会派から多くの国会議員、文化人や知識人、1000人をこすボランティアが応援・激励に駆け付けました。無所属とはいえ共産党議員だった候補を野党の党首や議員が応援したのは初めてのことです。
最終盤には安倍首相と麻生副総理が自民党候補の応援に入り、「安倍官邸VS.野党共闘」という構図になりました。宮本さんが立候補しなければこのような対立構図が明確になることはなかったでしょう。全国に勇気を与え、野党共闘の発展にとって大きな財産を残しました。
ただし、沖縄では「本気の共闘」が実現しましたが、大阪では立憲民主党と国民民主党は自主投票で推薦には至りませんでした。「本気度」に大きな違いがあったことは否めません。

消費増税阻止へ「本気の共闘」を

 選挙戦の最終盤、萩生田光一自民党幹事長代行が消費増税を延期して信を問う可能性に言及し、憲法審査会についても「少しワイルドな憲法審査を自民党は進めていかなければいけない」と語りました。個人の意見だとしていますが、安倍首相の意向を反映したものであることは明らかです。野党に解散をちらつかせて憲法審議への参加を迫る脅しではないでしょうか。
 一般消費税や売上税の導入を共産党の躍進と自民党の大敗によって挫折させた経験があります。選挙の結果次第では、安倍政権を追い込んで消費増税を中止させられることは歴史が証明しています。
天皇代替わりの政治利用を許さず、「ワイルド」な改憲キャンペーンやダブル選挙にも備え、参院選1人区での野党統一候補の擁立を加速しなければなりません。衆院補選の教訓を学び、明確な対立軸を掲げ、政策合意を進めて相互推薦・相互支援という「本気の共闘」を早急に確立する必要があります。
選挙中の論戦や衆院補選2連敗、景気の悪化と消費税10%増税への批判の高まりなどによって自民党内での動揺が生まれました。このチャンスを生かして攻勢に転じ、「希望の政治」の扉を開くことが、これからの課題です。

2019年4月2日火曜日

天皇代替わりで思うこと         

岩本 努 
 歴史教育者協議会・日本教育史研究会会員

「平成最後」の大合唱
「平成最後の・・」がメディアにあふれかえっています。91回目を迎えた選抜高校野球は元号と全く無関係なのに、選手宣誓に「平成最後の甲子園を最後まで諦めず、正々堂々と・・」とあったのにも驚かされます。そもそも元号は「皇帝が時を支配する」という思想から権力が使い始めたものであり、人々がそれを使うのは服属、つまり臣民となることにほかなりません。「平成最後」の連呼は元号への同調圧力ともなっています。政府が新元号を発表する4月1日以前に関係者を足止めし、保秘を徹底するということも報じられています。元号を天皇の承認や新天皇の手によって公布するという形をとりたいからでしょう。これには1868年、まだ京都にいた天皇が発した「明治改元の(みことのり)」(慶応4年を改め明治元年とする今後は1人の天皇の時代は一つの元号とする一世一元とせよとするもの)の影がちらついています。以後、明治政府は教育を通して、国民を天皇の臣民とする政策を強力におしすすめることになったのです。
教育勅語と御真影の果したもの
 国民を天皇の臣民(皇国民)化する上で使われたのは教育勅語と御真影でした。教育勅語は1890(明治23)年の発布、御真影はその前後から学校に下賜されるようになりました。両者が国民の上に君臨するようになるのは、学校儀式で使われるようになってからです。儀式では御真影への最敬礼が強制され、教育勅語が読みあげられました。儀式は荘厳な雰囲気づくりが演出されました。教育勅語は「朕惟フニ」から「庶幾フ」まで315字。このなかで最も多く使われている用語は「臣民」で、5回出てきます。国民を天皇の臣民とすることが教育勅語の目的でした。教育勅語は子どもたちには難解です。しかし、儀式は勅語の内容を理解させることが目的ではありませんでした。重々しい雰囲気の中で、粛々と進む式次第に知らず知らずのうちに、天皇は恐れ多い存在であること、天皇には絶対逆らうことができないという感性をつくることが大事だったのです。
 御真影や教育勅語謄本は校内では「最モ尊重ニ」扱わなければならないものでしたし(1891年の文部省訓令)、学校で男子教員が宿直するようになったのも、これらを護るためでした。「最モ尊重ニ」はやがて教員の命にかえてでも護らなければならないものなっていきます。火災、地震、戦争中の空襲という災害のなかで、御真影、教育勅語謄本を護ろうとして殉職したと記録されている教職員は28名いますし、敗戦後の処理(勅語謄本の返還、奉安殿の撤去)中でも二人の殉職者が出ています。
戦後の教育勅語復活論と道徳教科書の出現
 第二次大戦の敗戦後、明治以降の皇民教育の反省と教育改革のなかで、御真影は回収され、教育勅語は失効・排除の国会決議の後、回収されます。しかし、その後も国会などで首相や文部大臣などが「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ・・」など現在でも道徳的基準だなどの擁護発言が続きます。政治家の発言は、個人的な見解だとことわったり、世間の反応をみる「観測気球」の面がありましたが、2002年ころから「新しい歴史教科書をつくる会」が主導した中学校の歴史教科書(扶桑社版)で教育勅語の現代語訳が紹介されるようになり、各社が追随するようになります。教育勅語は国民すべてへの「観測気球」から生徒が教材として学ぶ教材となったのです。その教材は、教育勅語をどう紹介しているのでしょうか。
教育勅語擁護論者が「現代でも通用する」と主張する「父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ・・」など14の徳目を収斂させていた「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スへシ」の部分は以下のようになっています。
「もし、国や社会に危急のことがおきたならば、正義と勇気をもって(おおやけ)のために働き、永久に続く祖国を助けなさい。(一部要約)」(育鵬社版・中学社会、2015年発行)
「もし国家や社会の非常事態がおきれば、義勇の心を発揮して、国の命運を助けなければならない。(現代文で要約)」(自由社版、2017年発行)
 教育勅語を「現代でも通用する」風に解釈しているのです。戦前、文部省が教えていたこの部分の解説は「もし国に事変が起ったら、勇気を奮ひ一身をさゝげて、君国のために尽さなければなりません。かやうにして天地と共に(きわまり)ない皇位の御盛運をお助け申し上げるのが、我等の務めであります」でした(『尋常小学修身書 巻六』一九二七年発行)「君国」とは「君主の統治する国」(『広辞苑』)です。これをみれば、教育勅語教育の目的は前述のとおりであることは明白です。
 教育勅語を肯定する教科書の発行を認める文部科学省のもとで、小学校では2018年度から、中学校では2019年度から道徳の教科書が使用されはじめました。戦前、教育勅語の内容を教えたのは修身でした。「平成最後」や新元号キャンペーンが吹き荒れる現在、教育勅語や修身の歴史を学び語り継ぐことの重要さはいよいよ増しているのです