2010年11月8日月曜日

日本が農業危機に陥ったのは、自然現象ではない

 ~「東京における日米アンポを斬る⑧」~ 農民運動全国連合会  上山 興士

余剰農産物を押し付けたアメリカの食糧戦略
いま日本の農業は、存亡の危機を迎えている。米価は暴落を続け、「米作って飯食えない」という怒りが日本列島に広がっている。
日本の農業がここまで危機に陥ったのは、決して自然現象ではない。根源は、戦後アメリカの対日食糧戦略と日米安保体制にあることは明白だ。 
1951年9月、日米安保条約が締結され、53年にはMSA協定(日米相互防衛援助協定)が結ばれた。これを機に小麦やバターなどアメリカの余剰農産物を日本が輸入することになる。小麦を米食民族に消費させるために、54年に学校給食法が作られ、大量の小麦製品が学校給食に導入された。また、1951年から10年間、アメリカのキッチンカーが全国を駆け巡り、小麦粉を使った移動料理教室を開いて回った。こうしてアメリカは、日本人の胃袋を変えていったのである。
この流れが決定的になったのは、1960年の安保条約改定だ。新条約は、軍事同盟の強化だけでなく、第二条で「経済協力」を義務づけた。これを受けて政府は『貿易為替の自由化計画大綱』を決定し、数年後には農林水産物の9割が輸入自由化されてしまった。当時80%あった食料自給率は、現在40%(カロリーベース)まで低下した。

牛肉・オレンジの自由化も安保が元凶
1987年アメリカは、ガットに日本を提訴し、農産品12品目の自由化を迫った。この秋から翌年にかけ、牛肉・オレンジなどの自由化反対の運動が全国で強まった。農民の見たものは、アメリカの強圧的な態度と、日本政府の情けない態度だった。なぜそうなのか、みんなが深く考えざるを得なかった。当時の農民運動全国懇談会は「根源は安保条約にある」との声明を発表した。元農水省経済局長の吉岡裕氏は、新聞に「・・私はうかつにもそれまで日米関係にとって安保条約が致命的な重要性があると認識していなかった」「第二条、第四条(随時協議義務)からすれば、牛肉の輸入をめぐる日米貿易摩擦は、市場自由化の方向で協議しなければならないことを知り愕然とした」と書いた。

農民の隊列から「安保条約廃棄」のシュプレヒコール
1988年1月9日、労働者と農民、消費者がスクラムを組んだ「国民の食糧と健康を守る1・9全国総決起集会」が東京・清水谷公園で開かれた。政府が残存輸入制限12品目の自由化を強行しようとしたことに対する怒りの集会だった。このデモに参加した農民の口から、忘れられかけていた「安保条約廃棄」のスローガンが唱和されたのである。ある労組役員は、「安保闘争で毎日唱和したシュプレヒコール。もうそれを言えるような雰囲気もなく、安保は死語になったようだった」と。しかし、農民からすれば、米を含む農産物輸入自由化の根源が安保にあること、田んぼの真ん中から安保の中身がよく解っていたのだ。

東京の農業は多くの「恵み機能」を持っている
東京など都市の農業は、農家の努力にも係わらず、後継者不足や高すぎる相続税・固定資産税、野菜の安値で生活が厳しい問題など大変な状況にある。
一方、都市化地域農業は農業産出額の1/3を供給しており、都市農業抜きの食糧自給率は考えられない。また、地産地消型農業として、輸送に伴うCO2の排出量、フードマイレージの少ない環境保全型農業である。
また、都市農業は都市生活に対する「恵み」機能を持つ。ヒートアイランド現象の防止機能、洪水を防ぐ雨水の浸透機能、生物多様性の保全機能、防災機能、様々な「恵み」を与えている。このような「機能」は、都市の内部に必ず必要で、輸入も移入も不可能である。
これまで見てきたように、いのちの源、食と農の問題でも、農民の苦しみの根源は日米安保条約にあることが、今ほど鮮明になった時代はない。