2016年9月5日月曜日

安倍政権を支える日本会議と「日本会議議連」
      俵 義文(子どもと教科書全国ネット21事務局長) 

安倍政権は日本会議内閣である
 安倍晋三首相は歴史修正主義者の極右政治家であり、安倍政権は極右内閣である。第3次安倍再改造内閣では、日本最大の右翼組織である改憲・翼賛の日本会議と連携する日本会議国会議員懇談会(「日本会議議連」)に所属する大臣は16人(80%、公明党の石井国交相を除けば85%)、首相補佐官と官房副長官の2人、副大臣14人、政務官14人が同議連であり、大臣・副大臣・政務官・首相補佐官・官房副長官全体に占める割合は62.3%である。 
日本会議・「日本会議議連」の設立
日本会議・「日本会議議連」は、何時、どのようにして生まれたのか。97530日、右翼組織の日本を守る国民会議と宗教右翼組織の日本を守る会とが組織統一を行ない日本最大の改憲・翼賛の右翼組織「日本会議」が発足した。日本会議が発足する前日の97529日に、日本会議を全面的にバックアップし連携する目的で結成されたのが超党派の日本会議国会議員懇談会(「日本会議議連」)である。156月現在の「日本会議議連」の役員は表の通りであり、安倍政権の現閣僚や前閣僚、自民党幹部などの顔が並んでいる。
 「日本会議議連」の名簿は非公開であり、議連メンバーを知るのは容易ではないが、筆者は97年から今日まで何回か名簿を入手した。それによれば、「日本会議議連」に参加する議員は、結成時衆参189人だったがその後増え続け、20159月現在281人になっている。
「日本会議議連」は超党派であるが約9割は自民党であり、自民党内の「日本会議議連」メンバーは衆参共に一大勢力である(衆参議員717人の約4割)。これだけ強大化した右翼議連がその中心人物を総理・総裁に押し上げたのが第1次・第23次安倍政権誕生の舞台裏である。日本会議と同議連は綿密に連携して日本の政治を動かしている。 
日本の政治・社会・教育などを支配する日本会議・「日本会議議連」
日本会議国会議員懇談会の主な役員
               2015610日現在
役 職
議 員 名
特別顧問
麻生太郎 安倍晋三
顧 問
谷垣禎一 亀井静香(無所属)
相談役
額賀福志郎 石破 茂 鴻池祥肇
会 長
平沼赳夫(次世代)
会長代行
中曽根弘文
副会長
小池百合子 下村博文 菅 義偉 高市早苗 橋本聖子 松原 仁(民主) 松野頼久(維新)等
幹事長
衛藤晟一
幹事長代行
岩屋 毅
副幹事長
井上信治 江藤 拓 加藤勝信 等
幹 事
古川禎久 城内 実 中山泰秀 等
政策審議会長
山谷えり子
政策審議副会長
萩生田光一 稲田朋美 義家弘介 有村治子 礒崎陽輔 佐藤正久 長島昭久(民主) 中山恭子・松沢成文(次世代)等
事務局長
鷲尾英一郎(民主党)
事務局次長
木原 稔 馬場伸幸(おおさか維新)
島尻安伊子 丸川珠代 
(※自民党以外のみ所属政党を記述。政党名などは当時)
 「日本会議議連」は、「歴史・教育・家庭問題」(座長・高市早苗=07年当時、以下同じ)、「防衛・外交・領土問題」(座長・安倍晋三)、「憲法・皇室・靖国問題」(座長・鴻池祥肇)の三つのプロジェクトを設けて、合同役員会などで日本会議と協議し、日本会議の要求・政策を国政に持ち込む活動をしている。また、「日本会議議連」は、憲法、防衛・基地、領土問題、皇室制度、危機管理などをテーマに日本会議の中心メンバーの櫻井よしこ(ジャーナリスト)、百地章(日本大学教授)、西修(駒澤大学名誉教授)、長尾一紘(中央大学名誉教授)、長谷川三千子(埼玉大学名誉教授)、大原康男(国学院大学名誉教授)などを講師に勉強会を行い、「理論武装」と「意思統一」を行って活動している。こうした活動の上に、「日本会議議連」は、146月に「皇室制度PT」(座長・衛藤晟一)、1411月に「憲法改正PT」(座長・古屋圭司)の2つのプロジェクトチーム(PT)を設置して、勉強会と政策づくりを行っている。
 日本会議と「日本会議議連」は日常的に連携をとり、合同役員会などで情勢認識や方針を確認しているが、07107日には、合同で「設立10周年記念大会」を開催した。こうした右翼組織と右翼議連の連携によって、日本の政治や社会、教育に重大な影響を及ぼしてきた。「影響を及ぼす」というよりも、日本会議の政策・要求が「日本会議議連」の活動によって、実現したり、政府の政策を断念させたりしてきた。
 日本会議は、全国に約38,000人の会員を擁し、47都道府県本部と248支部を設置し、1600人を超える地方議員による日本会議地方議員連盟や日本女性の会、日本青年協議会などの組織をもって草の根の右翼運動を展開している。日本会議は、これら議連や組織を中心に、課題別のフロント組織を立ち上げて「国民運動」を進めてきた。その結果、日本を守る国民会議時期も含めると日本の政治や社会、教育に重大な影響を及ぼす「成果」をあげてきた。その主なものは、次の通りである。
 元号法制化の達成、政府主催の天皇奉祝行事の実現、女系女性天皇容認の皇室典範改定阻止、国旗国歌法制定、中学校教科書の「慰安婦」記述削除、教育基本法「改正」、選択的夫婦別姓法案阻止、外国人地方参政権法案阻止、検定制度改悪と教科書統制強化、道徳の「教科化」実現、例年の815の靖国神社参拝運動の広がり、領土問題での排外主義の広がりと教科書への領土問題の政府見解の記述実現、育鵬社教科書の採択などである。
 このように見てくれば、極右組織・日本会議が掲げた要求・課題が、連携する国会議員・地方議員や日本会議の会員、地域支部、日本女性の会などの運動によって、実現してきた恐ろしい構図が明らかになってくる。そして今、日本会議の悲願(安倍首相の悲願でもある)の憲法「改正」の実現に向けて、美しい日本の憲法をつくる国民の会をつくり、「戦争する国」を実現する「草の根改憲運動」に全力をあげている。

 なお、日本会議及び「日本会議議連」についての詳細は、拙著『日本会議の全貌―知られざる巨大組織の実態』(花伝社)を参照されたい。(本文中敬称略)

2016年7月26日火曜日

参議院選挙の結果と政治変革の展望
負けはしたけれど完敗ではなかった

法政大学名誉教授  
  五十嵐 仁
 
 注目の参院選でした。各党の議席は自民56、民進32、公明14、共産6、維新7、社民1、生活1、無所属4となっています。

自民党と公明党の与党は、改選議席の過半数である61を超えて70議席となりました。これは安倍首相が掲げていた目標です。その目標を9議席上回ったわけですから、今回の参院選で与党が勝利したことは明らかです。
 しかし、それでは自民党が圧勝したのかといえば、必ずしもそうではありません。確かに自民党は比例代表で3年前から165万票以上増やして15年ぶりに2000万票台に乗せて1議席増とし、56議席となって改選議席の50議席を6上回りました。しかし同時に、選挙区では前回より10議席減となって合計で9減らしています。単独での過半数である57議席にも1議席足りませんでした。
つまり、与党は勝ちましたが、自民党は圧勝したわけではありません。手放しで喜べるような結果ではなかったのです。逆に言えば、野党は確かに負けはしましたが、完敗したわけではありません。
参院選の結果、確かに改憲勢力は改憲発議に必要な参院での3分の2の壁を突破しました。しかし、これも無所属の改憲派を合わせた議席数で、その中身はバラバラです。公明党は「改憲勢力ではない」と弁解し、大阪維新の会は9条改憲を主張しているわけではありません。
安倍首相は選挙中、街頭演説で改憲には触れませんでした。この「改憲隠し戦術」には、メリットとデメリットがあります。議席を獲得するうえでは効果的でしたが、選挙後、直ちに改憲に突き進めば国民から大きな反発を受けるリスクも高めました。
「任期中での改憲」に執念を燃やしている安倍首相は、投票日夜のテレビ番組でさっそく「どの条文をどう変えていくか、憲法審査会で議論していく」と発言しています。衆参両院の憲法審査会での審議を再開し、秋からでも改憲論議を進めていきたいと考えているのでしょう。
 自民党が踏ん張った要因は
 歴史的に振り返ってみると、自民党の議席のピークは衆院で2012年総選挙、参院では2013年参院選でした。衆院では201412月総選挙で2議席減らし、今回の参院選では9議席減らしています。201213年を頂点に、その後は下り坂だということが分かります。
 それでもこの坂を転がり落ちることなく、今回は頂上から少し下ったところで踏ん張ったように見えます。どうして、それが可能だったのでしょうか。
 政権を不安定にさせている欧米諸国との違いでは政治的混乱の要因となっている難民問題がなく、逆に日本周辺における安全保障環境の不安定さという問題を抱えていることが挙げられます。これらが政権にとって有利に働きました。
イギリスのEU離脱決定や中国の経済不振などもあって世界経済の先行きは不透明で、バングラデシュでのテロ事件で日本人が狙われて犠牲になるということもあって国民の不安感が高まっています。そのために政治の安定や安心を求めて変化を嫌う意識が生じたのではないでしょうか。
「隠す、盗む、嘘をつく」
 これに加えて、安倍首相の選挙戦術も功を奏したように見えます。今回の選挙では、とりわけ「隠す、盗む、嘘をつく」というやり方が目立ちました。
 第1の「隠す」ということでは、「選挙隠し」「争点隠し」という特徴があります。この間のマスメディアに対する懐柔工作と恫喝によってテレビは委縮し、参院選の報道は3年前より3割減となり、ワイドショーは都知事選の方を取り上げる始末です。安保法や憲法、TPP(環太平洋経済連携協定)、原発再稼働、沖縄辺野古での新基地建設などの争点に触れることを避け、安倍首相は党首討論から逃げただけでなく街頭演説では改憲について口をつぐみました。
 第2の「盗む」ということでは、野党の政策の剽窃という問題があります。最低賃金時給1000円、同一労働同一賃金、給付型奨学金の創設、保育園の増設による待機児童解消、保育士や介護福祉士の処遇改善などを次々と打ち出し、野党との政策的な違いを曖昧にする作戦に出ました。自民党は「これまで野党が重視してきた政策を取り入れた」(『毎日新聞』7月9日付)と指摘されるように、政策を盗んで野党との違いを見えにくくしたのです。
 第3の「嘘をつく」ということでは、「アベノミクスは道半ば」だと言い張りました。逆から読めば「ばかな道」と言われたように、すでに失敗が明らかなアベノミクスを取り繕い、有効求人倍率など都合のよい数字を利用して嘘をつきました。そもそも消費税再増税の先送りのための「新しい判断」が、参院選での争点化を避けるための大嘘だったと言うべきでしょう。
 新たな希望としての野党共闘
 このような自民党や改憲勢力の圧勝を阻んだのは、市民と野党共闘の力でした。このような対抗措置を講じなかったら、野党の惨敗は避けられなかったでしょう。自民党が前回から議席を減らしたのは1人区で292敗から2111敗となって8議席を失ったからです。
 昨年の安保法(戦争法)反対運動の中で「野党は共闘」という声が沸き上がり、これに応える形で共産党が「国民連合政府」を提唱し、これを契機に野党間での選挙協力の話し合いが進んで2月19日に5党合意が成立しました。これが歴史的な画期となりました。
 この後、共産党は1人区での予定候補を取り下げて比例代表に回すなどの大胆な対応を行いました。このような決断がなければ野党共闘は幻に終わっていたでしょう。それを生み出したのは戦争法廃止を求める2000万署名に結集された市民の力であり、野党が手を取り合って与党に対抗することを求めた市民の声でした。
 こうして全国32の全ての1人区で選挙共闘が成立し、11選挙区で勝利することができました。とりわけ、秋田を除く東北と甲信越での当選が光りました。当選には至りませんでしたが、愛媛、長崎、岡山、滋賀などでは比例代表での各党の得票合計を3割から7割近くも増やして接戦に持ち込んでいます。
 野党共闘については、その効果を疑問視する声や限界を指摘する論調もあります。しかし、共闘によって当選者や接戦が増えたことは事実であり、選挙への関心が高まって261人区では前回より投票率が上昇しました。その効果が上がって脅威となりつつあるからこそ、それを阻んで瓦解させようとする攻撃も強まっているのではないでしょうか。
 野党の前進と東京の成果
 民進党は改選議席を減らしたとはいえ、前回の17議席からほぼ倍増して32議席を獲得しました。一時のどん底を脱したと言えるでしょう。野党共闘を受け入れて中心的な役割を果たしたことがイメージの転換に役立ち、一定の支持回復につながったのだと思います。
共産党も改選3議席を倍増して6議席を獲得するなど躍進しました。比例代表での得票数も601万票を超え、史上2番目となりました。野党共闘の推進力として積極的な役割を演じたことが評価されたわけです。しかし、事前の予測や前回の8議席を下回りました。
これについては、自衛隊についての藤野前政策委員会責任者の失言、執拗に繰り返された反共攻撃、北朝鮮の核実験やミサイル発射、尖閣諸島や南シナ海周辺での中国の不穏な動きなどが、その要因として考えられます。このような不利な状況の下でも確実に前進できる地力を蓄えることが引き続いての課題です。
 このようななかで、東京では大きな成果を上げることができました。定数6のうち、民進党の蓮舫と小川敏夫候補、共産党の山添拓候補の当選を勝ち取り、改憲勢力の過半数獲得を阻止したからです。昨年の「2015年安保闘争」における都内各地での市民運動の盛り上がり、革新懇の活躍や共同の進展などを、その要因として挙げることができます。
これからの展望と課題
 参院選後の新しい国会で、改憲に向けての攻勢は強まるにちがいありません。しかし、一瀉千里に進むという状況でもありません。戦争法の発動と既成事実化に反対しながら、改憲に向けた策動の一つ一つを見逃すことなく阻んでいくことが重要です。「審議くらいなら」「条項の追加程度なら」と油断していると、そこに付け込んでくるのが安倍首相の「やり口」ですから、警戒を怠ってはなりません。
 同時に、都知事選のような今後の首長選挙、衆院補選など各種の選挙でも野党共闘を追求し、勝利していくことが重要です。その一つ一つを来るべき衆院選での野党共闘の実現と勝利に結びつけていかなければなりません。
野党共闘は今後の国会共闘や論戦にも生かされる必要があります。通常国会で共同提出した法案や選挙に当たっての協定などを基に政策合意の幅を広げ、安保・自衛隊・税制・エネルギーなどの基本政策に関する合意も追求してもらいたいと思います。
これは野党共闘によって樹立されるべき新政権に向けての政策的準備という意味も持ちます。その際大切なのは希望を語ることであり、アベ政治を許さず暴走をストップさせた後に実現するべき明るくポジティブな未来像を提示することです。
 本気になって新しい政権の準備を始め、夢と希望を語ることによって野党の魅力を高めるのが課題です。それを実現可能なものとして具体的に提示すれば、政治を変えることができます。政治変革の展望を切り開く可能性とそこに向けての進路を見つけることができたところに、今回の参院選の最大の意義と成果があったと言えるのではないでしょうか。



2016年3月2日水曜日

金持ち中心社会の転換!

  金持ち中心社会の転換を
       リサイクルショップ「素人の乱」
       松本 哉さんインタビュー 
20114月に「原発やめろ」の15000人のデモを展開し全国から注目された、リサイクルショップ「素人の乱」の松本哉さんにインタビューしました。 
自力の生活圏めざす
いや〜、安倍晋三をはじめ自民党なんかをのうのうとのさばらせてる我々日本民衆の弱さを反省しないとね〜
 さて、社会が大量生産・大量消費のムダのかたまりのような社会で、あいかわらず窮屈な世の中。そんな状況をほっといて、金持ち連中が本気を出し始めて、いよいよやばい世の中になったらたまらない。黙って奴隷のように生活しててもしょうがないので、少しでも自力の生活圏や経済圏を作っておこうともくろんでいる。
 リサイクルショップというのはそもそもものを大切にするという仕事で、そういう人々の浪費によって成り立っている社会に対抗する意味もある。それに、物を通して地域の人たちとも仲良くなり、個別に分断された今の世の中でまた人の繋がりを生むという意味もある。そんな意味も含めて、2005年春、仲間と一緒に古着から中古家具家電、雑貨などを扱う「素人の乱」1号店を高円寺に開いた。当時、その商店街には閉まっている店が多かったが、商店街の人たちの助けもあり、次々と空き店舗を紹介され、勝手に広がっていった。と、店は一つの経営体にせず、店舗ごとの独立採算。自由に、人間として楽しくやれることを大切にし、困ったら助け合っている。 
つながりとネットでデモ
震災と原発事故直後の20114月には、高円寺で「原発やめろデモ!!!!!」を企画。高円寺は、お店をやってる人やミュージシャンやアート系など知り合いが多く、まず知り合いを通じて広がり、その後にツイッターやフェイスブックなどネットで広がった。ネットだけで情報を広げることもできるかもしれないが、やはり実際のコミュニケーションと直結した上での情報の方が強いと思う。デモの時は、期間限定でホームページを立ち上げ、そこで情報を出していった。高円寺の後は、渋谷10000人、新宿20000人、銀座8000人、新宿10000人と月1回、そして翌年の原発再稼働の時にもう一度デモを行った。当時、原発が爆発し不安だった。政府は情報を曖昧にし、ただ自粛ムード。「何かやりたいが出来ない!」、そんな人々の思いが原動力となって、大人数が集まったのではないか。
 一番大事にしていたのは、その都度解散すること。継続した運動というのも大事だと思うけど、こういう一気に畳み掛け様っていう感じの時は瞬発力を大事にしたかったので、一回のデモで政府に「参りました。原発やめます」と言わせたかった。ダメならこっちが「参りました」ってことで解散して、また次の大勝負のためにデモ主催グループを立ち上げる。こういう感じでやった。 
金持ち中心社会の転換を
戦争法案反対では、阿佐ヶ谷駅前で、警察には映画撮影という程で申請を行い、模造のミサイル積み、戦争にかかわる横断幕を貼り付けた悪の権化のような車を作り、それを群衆で破壊してしてひっくり返すパフォーマンスでアピールした。退屈なデモばかりでもつまらないので、「何事だ!?」と、たまには町中がびっくりするようなやり方でやってみた。また、戦争は相手があることであり、海外の民衆と手を組もうということになり、香港、上海、台湾、マレーシア、パリなどで同時に反戦アクションを展開。政府はいつも茶番劇のように他国と揉め始め、マスコミが面白がってそれを煽り、民衆が巻き込まれる。そんな手には乗らないということで、連携して行った。反原発運動以降、各地の反乱の拠点みたいな自立スペースとひたすら交流を続け、今はアジア中に友達がおり、今回の取り組みとなった。
 いまの安倍政権は、税金上げようとするし、憲法まで変えたがってるし、マイナンバーなどで民衆を縛ろうともするし、もうメチャクチャ。ニセモノくさい対抗手段じゃなく、金持ち中心社会とは発想も考えも違うような、民衆の自立空間や自分たちの生活圏をちゃんと強く作っていくことが、力にもなるし、それは自然と選挙結果にも影響してくるはず。それが、本当の意味で現政権を倒せることだと思う。


2015年10月1日木曜日

9月26日東京革新懇世話人学習交流会 五十嵐仁さんの講演要旨

戦争法案とのたたかいと政治変革の展望
             五十嵐 仁
  
 926日の東京革新懇世話人会・学習交流会における五十嵐仁(東京革新懇代表世話人・法政大元教授)さんの講演をご紹介します。

 
戦争法とのたたかいは、試合に負けたが勝負には勝った。決着は次の参院選、解散・総選挙でつける。国民の民主主義的覚醒―政治変革の必要性と決意、主体形成が促された。パンドラの箱に残った希望は民の声―それを国民連合政府樹立の力とするのが課題だ。 
Ⅰ.国会での審議・採決を通じて何が明らかになったのか
立憲主義・平和主義・民主主義が破壊されたのが、国民に明瞭に見えた。特に立憲主義変えることは許されないと、日常会話に立憲主義が出てくるようになった。
民意は、「法案反対」51%(「朝日」)、「憲法に違反」(「毎日」)、「論議尽くされてない」75%(「朝日」)、「説明不十分」(「読売」)だ。 
Ⅱ.戦争法案とのたたかいで何が明らかになったのか
実証された「反響の法則
強く打てば強く響く―攻撃への反発や抵抗が生まれた。広範な人々が立ちあがり、全国2000ヶ所以上で数千回の抗議、累計130万人以上が路上で抗議した。相次いで新しい組織が結成され、労組など既成の組織は裏方に回って運動を支えた 
デモの復権
原発再稼働反対、秘密保護法制定阻止、戦争法案反対とデモの再生と拡大があった。デモの形態も多彩で、「わたし」が主語で自分の言葉で話し、心を打つ内容だった。
 産経・フジ調査でデモ参加は3.4%(20歳以上で356万人)、「今後参加したい」18.3%。 
獲得された大衆運動の「新しい質」
 3つの潮流が合流し総がかり行動実行委を形成、市民運動を仲立ちとした連合系と全労連系の連携ができた。
 青年・学生参加の背景は貧困と不安であり、かつては「他者」のためだったが、今は「平和で安全な社会にしていく」「自己」のために立ちあがった。
 高齢者と若者、組織と個人、地方・地域と国会周辺のコラボ、土台と上部構造の関係だった。運動の武器としてのSNSが力を発揮した。 
Ⅲ.政治変革・国民連合政府の樹立に向けて
万余の人々への連夜の行動は政治教育となった。「戦争法案今すぐ廃案」から「安倍内閣は今すぐ退陣」へ倒閣運動へと転化した。持続的な運動による世論の変化、裁判闘争、選挙での落選運動がめざされる。
共産党提案の国民連合政府は、入閣は条件にしていず戦争法廃止一点での共闘だ。国民の願いを優先させるか、党利党略に走って第2自民党になるかリトマス試験紙となる。
 解散・総選挙を要求しつつ参院選でネジレをつくり、衆院選で政権交代、暫定政府の樹立めざす。 
参院選での選挙協力がポイント
参院選での1人区対策が重要で、民主・維新・共産・社民・生活の5党による選挙協力が出来るか問われる。与野党差は2814議席覆せば逆転する。総議席の賛成派は148で反対派は90、改選の賛成派は65で反対派は56だ。
 しかし、民主党には、日本会議所属の長島昭久、原口一博、前原誠司、松原仁等がいる。 
今後の対決の焦点と条件
カギを握るのは民主党だ。「右のドアを閉めて左のドアを開けよ」でなければ、「裏切られた」との国民の思いは払拭できない。
上部だけでなく土台が変わり始め、本格的な政権交代の準備が始まっている。上からの風頼みの交代ではなく下からの草の根の力による交代へ 
むすび
「反共主義」では国民の期待に応えられない。
 気分としての「反自民」、政策としての「半自民」との中途半端さを克服し、安倍政権に対する対抗と政策転換の方向性を明確にする必要がある。

 この間の運動で培われた協力・共同の経験を生かして、草の根の地域から国会内や国政に至るまでの幅広い共闘を構築し、安倍首相の退陣を実現して政治を変えていくこと――これこそが安倍首相による「政治的プレゼント」を最大限に活用する道にほかならない。

2015年7月31日金曜日

今こそ問われる日本政府の〈歴史認識〉:「戦後70年談話」をめぐって
  山田 朗 明治大学・日本現代史、東京革新懇代表世話人

 希薄化する戦争の〈記憶〉
 〈歴史認識〉という言葉が、ニュースに登場するようになってすでに久しい。そしてそれは、近隣諸国との外交問題という場面で問題にされることが多い。日本政府の、あるいは日本人の〈歴史認識〉が、最初に外交問題になったのは、1982年の教科書問題(教科書検定で「侵略」を「進出」と書き換えさせたと報道された問題)であった。それ以来、「南京大虐殺」「慰安婦」「強制連行」「植民地支配」「靖国公式参拝」などをめぐって、日本側の〈歴史認識〉がしばしば問われてきた。それは、過去の〈加害〉行為を忘却しつつある日本側と、自らの〈被害〉を日本に忘れさせまいとする近隣諸国側との衝突でもあったと言える。
 戦後70年が経過し、日本人の中の戦争の〈記憶〉は希薄化したことは否めない。もはや、1945年の敗戦以前のことを自らの体験として語れる人は、総人口の1割を切ったと考えられる。それでも、戦争を体験していない多くの日本人の中にも、「原爆」「東京大空襲」などの自らの〈被害〉の〈記憶〉は、多くの人びとの努力によって継承されている。だが、戦後50年前後に出された「河野談話」(1993年)「村山談話」(1995年)で述べられた「従軍慰安婦」や「植民地支配と侵略」に代表される日本人の〈加害〉の〈記憶〉の継承は進んでいないように思われる。なぜ、〈加害〉の〈記憶〉は継承されがたいのか。それを考えることは、アジア諸国との間の〈歴史認識〉のギャップをどう埋めるか、という問題を考える上でも重要なことである。 
戦争の〈記憶〉の継承のされ方
 〈加害〉の〈記憶〉の継承が進まないのはなぜか。戦争の〈記憶〉の継承は、大別して私的継承と公的継承(公的な〈記憶〉の構成)とに分けられる。私的継承とは個人や家族で「ファミリーヒストリー」として継承されるものであり、公的継承とは教科書記述に代表されるものである。私的継承として個人・家族において継承される私的な〈記憶〉は個別具体的で特殊なものを多く含んでいるが、それが地域や社会の中で集約され、同時代人の共通体験として意識されるようになったものが公的な〈記憶〉=〈集団的記憶〉と表現されるものである。この公的な〈記憶〉はその時代を生きた人々の私的な〈記憶〉群の最大公約数のようなもので、この公的な〈記憶〉を土台にして構成・叙述されたもの(教科書など)を使って学校などで社会的に〈記憶〉を継承するのが公的継承である。
 個人の記憶から始まった〈記憶〉の継承は公的な継承の段階をへて、〈歴史〉としての継承へとつながっていく。ただし、公的な〈記憶〉=〈集団的記憶〉がそのまま〈歴史〉になるわけではなく、そこには一般には忘却されていたが、新たに「発見」「発掘」された〈記憶〉が組み込まれる形で〈歴史〉化が進展するのである。ここで重要なのは、〈記憶〉の私的継承が断絶してしまうと(特定の事柄が個人・家族のなかで継承されないと)、公的な〈記憶〉も形成されにくくなり、あるいはきわめて希薄化した公的な〈記憶〉しか形成されず、公的継承に結びつきにくくなるということであり、社会全体の〈記憶〉の希薄化を押し進めてしまうということである。
 「従軍慰安婦」や「植民地支配と侵略」に代表される日本人の〈加害〉の〈記憶〉は、親から子へと語り継がれにくいものであり、放置しておくとそれらの〈記憶〉は薄れ、消滅してしまう。だが、多くの日本人が〈被害〉の〈記憶〉を継承しているように、近隣諸国の人びとの〈被害〉すなわち日本人による〈加害〉の〈記憶〉は、決して忘却されておらず、むしろ公的な〈記憶〉として強力に継承されている。日本側の〈記憶〉の希薄化と近隣諸国側の〈記憶〉の継承、その大きなギャップこそが、〈歴史認識〉問題の本質である。 
「河野談話」「村山談話」継承の重要性
 すでに出来てしまった大きな〈記憶〉のギャップを埋めるためにはどうしたらよいのか。それには、まず、「歴史的には何があったのか」ということを直視し、日本における公的な〈記憶〉を、〈加害〉の記憶をきちんと組み込む形で再構成・継承することが必要である。そして、〈加害〉の記憶を組み込む形で日本人の公的な〈記憶〉を組み直すために必要なのは、第1に「河野談話」「村山談話」の継承であり、第2に教科書などによる〈記憶〉の継承である。第1の問題は、首相をはじめとする日本を代表する立場の政治家が、〈被害〉を受けた近隣諸国と日本人の心情に配慮した、〈加害〉の問題を直視し、反省を表明する公式な声明を出すことで、そうした問題を日本人が決して忘却せずに、将来の糧として生かしていこうとしていることを示すことが大切だと思う。「未来志向」という言葉は美しいが、ややもすると「過去のことは棚上げにして」というニュアンスで使われやすい。未来は現在からスタートし、現在は過去の土台に上に成り立っているとすれば、過去(歴史)から目をそらそうとすることは、現在を誤り、未来を失うことにもつながりかねない。ドイツは、ヴァイツゼッカー元大統領の演説に見られるように、過去の反省を現在の信頼へとつないできた。政治家にとって、〈歴史認識〉はその人物の価値観・倫理観の土台をなすものであるので、貧弱な〈歴史認識〉を示されたのでは、その人物を「代表」としている国民が恥ずかしい思いをすることになる。 
教科書記述の重要性
 近隣諸国との間の〈記憶〉のギャップを埋め、〈加害〉を含めた〈記憶〉の再構成・継承をおこなうには、〈記憶〉の公的な継承の手段である教科書の記述や博物館の展示などが重要だ。〈加害〉の側面にふれるとすぐに「自虐的だ」とか「反日的だ」などと批判する人びとがいるが、「自虐」と反省とは根本的に異なることだ。「自虐」は何者も生み出さないが、反省は確実に未来を構築する糧となる。また、反省がなければ、再び失敗を繰り返すリスクは高まる。もっとも、「反省」が必要だと言っても、〈加害〉を含めた〈記憶〉の継承がなされていなければ、いったい何を反省したらよいのかが分からないであろう。
 1982年の教科書問題以来、〈歴史認識〉問題は、常に近隣諸国からのナショナリズムを背景にした「抗議」という形で姿を現すために、〈加害〉をとりあげることは、日本国内でもややもすると偏狭なナショナリズムを背景にした歴史修正主義にもとづく反発が強まっている。〈歴史認識〉問題は、ナショナリズムから完全に切り離すことは難しいが、さりとてナショナリズムを過度にもちこむと、冷静な議論ができなくなるので忍耐と自制が必要だ。 
〈記憶〉を継承して未来を構築するために
 私たちは、戦後70年たっても戦争の処理(領土問題や戦争被害者への補償など)は終わっていないことを認識する必要がある。この戦争処理が終了していないことがアジア諸国との関係を不正常なものにしつづけている。私たちに今、必要なことは、近隣諸国との間に〈歴史認識〉の議論のための「共通の土台」を作るということである。それには、戦争・植民地支配の実相を次世代に継承することが大切であり、忘却こそが一種の「罪悪」であると考えるべきであると思う。「過去に何があったのか」ということをたがいに直視することを土台にしながら、相互の歴史に対する理解・交流を深めることが重要であり、信頼関係構築の基礎である。戦後世代にとっても戦争は関係のないことではない。先人が清算していない〈負の遺産〉があるのならば、私たちがその清算に参加する必要があるし、〈記憶〉の掘り起こしと継承というその作業は、かならずや私たちと近隣諸国の人びととの新しい未来を構築するポジティブなものになるはずである。
戦後70年安倍談話を前にアジア太平洋戦争を考える
石山久男(憲法会議代表幹事)

安倍談話についての研究者74氏の声明
 7月17日、大沼保昭、三谷太一郎両氏を代表として、国際法学、国際政治学、歴史学の著名な研究者74人が、戦後70年安倍首相談話についての声明を発表した。74氏の声明は、「私共の間には、学問的立場と政治的信条において、相違があります」としながらも、幅広い多数の研究者が、1931~45年の間に行われた戦争の評価について共通した認識をもっていることを示し、そのことを日本国民にも、諸外国の人びとにもぜひ知ってほしい、安倍首相にはこの共通認識をふまえた談話を発表してほしい、との思いをあらわしたものである。そして、もしも国際社会で今日確立している戦争の評価を否定するかのような疑いをもたれる談話を発表したならば、日本に大きな不利益をもたらすことになると、切々とかつ熱く訴えてもいると私は感じた。
 戦後70年にあたり、いま日本国民が何を共通認識として確立しなければならないかについて、この声明はある意味では抑制的に、しかし最低限必要なことを示しているように思うので、この声明にも添いながら、戦後日本の今日までの戦争のとらえ方とその弱点、その克服の方向について述べてみたい。

 日本国民の戦争認識と声明の認識とのギャップ
まず現在の日本国民の戦争認識がどうなっているのかを、「朝日新聞」2013年12月29日付の調査結果からみてみよう。1945年に終わった戦争を侵略戦争だったと考える人は、20代で45%、30代以上では55~60%となっている。一方、侵略戦争ではなかったと考える人が、20代で33%、30代以上では24~27%いる。侵略戦争と考える人のほうが多いが、20代では半数以下であり、逆に侵略戦争ではなかったと考える人が20代では3分の1、30代以上でも4分の1いることになる。
 声明は、満州事変とその後の日中戦争、太平洋戦争を含めた1931~45年の戦争が「その実質において日本による違法な侵略戦争であったことは、国際法上も歴史学上も国際的に評価が定着しております」と述べている。そうしてみると、国際的には定着している「日本による侵略戦争」という評価が、戦後70年たった今でも日本国民の中には決して定着していないというギャップの存在に気づく。このような国民の戦争意識の分裂、全体としてのあいまいさが、「侵略」の事実を否定する戦争認識を支えているのである。

戦争認識が歪められた根源
 なぜ戦後日本の戦争認識はこうなってしまったのか。その主要な根源は、日本の事実上の単独占領軍となったアメリカのアジア戦略・世界戦略にあった。日本を目下の同盟者として利用したいアメリカにとっては、アメリカに忠実に従うかどうかわからない民主的平和的政権が樹立されるのは不都合なので、確実な目下の同盟者になってくれる天皇を頂点とした旧支配層を権力の座につけたのである。昭和天皇は、沖縄をさらに50年もの長きにわたってアメリカの軍事占領下におくことを推奨するメッセージまでアメリカに送って忠誠を示し、自らの地位の保全に成功した。
 このような体制のもとで、旧支配層の大部分は戦争責任・植民地責任の追及をまぬがれ、その結果、日本全体の戦争責任・植民地責任の追及もあいまいにされた。
 また、近代日本の侵略戦争と植民地支配が進む過程のなかで形作られていった日本国民のアジア蔑視意識も、アジアに対する加害責任を日本国民自身が積極的に追及することにブレーキをかける役割をはたした。
 それらの総体的結果として、戦後日本は近隣アジア諸国と正常な関係をきずくことに多大な時間を要した。韓国との国交正常化までに戦後20年、中国との正常化には27年を要し、朝鮮民主主義人民共和国とはいまだに国交が成立していない。在日コリアンの正当な権利保障や戦後補償問題など未解決の問題も多く残している。
 これらの残された問題を解決し、平和なアジアのなかで日本が平和のうちに生存していく未来をつくるためにも、声明がいうように1931~45年の間において「日本が侵略されたわけではなく、日本が中国や東南アジア、真珠湾を攻撃し、三百万余の国民を犠牲とし、その数倍に及ぶ諸国の国民を死に至らしめた戦争がこの上ない過誤であったことは、残念ながら否定しようがありません。そしてまた、日本が台湾や朝鮮を植民地として統治したことは、紛れもない事実です」という認識を、少なくとも圧倒的多数の日本国民の共通認識にするために、私たちはいっそうの努力を重ねる必要があることを戦後70年にあたって、あらためて確認したいと思う。

安倍首相の「侵略の定義」についての発言
安倍首相らが「侵略の定義は定まっていない」という趣旨の国会答弁をおこなってきたことについて、声明が、抑制的な表現ながら「これは学問的には必ずしも正しい解釈とは思われません」と指摘していることも重要である。
実は声明が指摘する通り、2013年4月、参議院予算委員会で安倍首相は、「侵略という定義については、学会的にも国際的にも定まっていない」と答弁した。安倍首相の意図は、「侵略」の定義は定まっていないのだから、日本の行為を「侵略」と定義することはできない、だから日本がアジア諸国を侵略したとはいえない、と結論づけたいというところにあると思われる。
声明はこれに対し、安倍首相のこうした発言は、「日本が1931年から遂行した戦争が国際法上違法な戦争だったという、国際社会で確立した評価を否定しようとしているのではないかとの疑念を生じさせるもの」と指摘している。

侵略の定義は定まっている
実際は、侵略の定義は国際的に定まっている。第一次大戦後の1920年に成立した国際連盟規約第10条は、各国の領土保全と政治的独立を尊重し、これを外部の侵略に対して擁護すると定めている。
米英中三国がアジア太平洋戦争の最中の1943年に出した「カイロ宣言」は、こうした経過をふまえつつ、「日本国の侵略を制止」することが戦争の目的だと宣言し、日本が他国から奪った領域を返還させるとした。カイロ宣言を引き継ぐとしたポツダム宣言も含め、国際社会の共通認識として、日本が他国の領土と独立を奪った事実を侵略と定義したことになる。
さらに1974年には国連総会が「侵略の定義決議」を採択し、その第1条で「侵略とは、国家による他の国家の主権、領土保全若しくは政治的独立に対する武力の行使」と定義した。
学界の動向についても有力な一例をあげておこう。第一次安倍内閣の時期にあたる2006年に日中歴史共同研究を行うことが合意された。2010年に公表された報告書には、各時期・テーマについて日中双方の研究者が執筆した論文を併載しているが、日中戦争を扱った近現代史第二部第二章のタイトルは、日本側の論文が「日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦」、中国側の論文が「日本の中国に対する全面的侵略戦争と中国の全面的抗日戦争」となっており、どちらも日本側の「侵略」と表記している。日本側委員の人選は政府主導で進められたので、座長の北岡伸一氏をはじめ、政府の立場に近い研究者が多数をしめていたが、それでも日中戦争を中国への侵略とみる点では一致していた。
したがって、侵略の定義は国際的にも学界でも定まっているのであり、声明が安倍首相らの発言に対し「学問的には必ずしも正しい解釈とは思われません」と指摘したのは全くその通りなのである。
ただこれまで、この「侵略の定義」発言に対する反論がきちんとされてこなかったきらいがあり、その意味でも今回の声明の意義は大きいものがある。

戦争を清算できなかった戦後史への反省

 私たちは過去の植民地支配と侵略戦争の歴史を学び反省し、それをアジアの永続的な平和へつなげていかなければならない。そのためにも、戦争の歴史をきちんと清算できなかったのはなぜなのか、どんな問題が残されているのかについて、戦後70年を機に、あらためて学び直さなければならないだろう。戦後生まれの人が8割を超えた今、戦争を単なる過去の問題としてではなく、今と未来の自分の問題としてとらえることにもつながると思う。

2015年6月3日水曜日

横田基地にオスプレイ配備

  東京から他国を攻撃する
    
    岸本 正人東京平和委員会事務局長)

 東京には、在日米空軍横田基地が所在します。首都に外国軍の基地があるのは、日本ぐらいのものです。
その横田基地に、「航空自衛隊総隊司令部」が20123月に移転し、「航空自衛隊横田基地」として運用を開始しています。
日米の司令部が同じ基地に同居し、平時からすでに、「有事」を見こして、情報や運用を共有する「日米共同統合運用調整所」が設置され、切れ目のない情報交換が行われています。
この調整所から、他国を攻撃する司令が出されることになります。戦争法を先取りすることがすでに行われています。
米軍基地に、航空自衛隊の司令部が同居するという、主権を投げ棄てた異常な事態です。

特殊作戦オスプレイ配備
その横田基地に、米空軍が特殊作戦に使うCV22オスプレイ10機を配備すると、政府が発表しました。
周辺自治体に配られた「外務省及び防衛省からの説明」には、――日米同盟の抑止力・対処力の向上になり、アジア・太平洋地域の安定にもなり、歓迎する。米軍は、横田基地に選定した理由について、運用や訓練上のニーズ、機体整備のための施設、格納庫と要員を受け入れるためのスペースなどから、横田基地が最適であると判断したーーとしています。
これで、受け入れを承諾させようとする日本政府に怒りがわいてきました。同時に沖縄県の「建白書」の重みを深く感じます。
 横田基地へのオスプレイと一緒に兵士・軍属約400名も配備され、沖縄の特殊作戦部隊を改編して、横田基地に新設することも明らかになっています。 
CV22に、特殊作戦部隊を乗せ、敵地に侵入し攻撃する。横田基地から他国を攻撃しに行くことになり、本来日本には、配備されていては、いけない部隊です。
横田基地の3キロ圏内には、小中学校が35校あり、基地に隣接して住宅が密集しています。ハワイでの墜落事故と同等の事故が起これば、甚大な被害になるのは明白です。アメリカから見れば、犬小屋ぐらいにしか見えないのでしょうか?こんな屈辱的なことはありません。通常訓練でも事故を起こすオスプレイが、関東周辺や日本全土で危険な訓練を行うようになることは許されません。

 将来6070機に
横田基地への12機以外にも、自衛隊が17機のオスプレイを購入します。また、米海軍が2020年を目途に、基地と空母へ人員や物資を運ぶ艦載輸送機として、海軍用オスプレイ、HV22を10機から20機を調達し、厚木基地に配備することを予定しています。
現在沖縄に24機が配備されており、将来的には、約60機~70機のオスプレイが日本を飛び回ることになります。

全都、近県での幅広い運動でオスプレイ配備を阻止し、沖縄から、日本からオスプレイの撤去を求める運動にしていきます。